何もできない日があります。
朝、起きたけれど、身体が重い。 返さなければならない連絡がある。 やったほうがいいことも分かっている。 でも、どうしても動けない。
気づけば、昼になっている。 何かを始めようとして、また手が止まる。 誰かに説明できる理由があるわけではない。 ただ、その日はうまく進めない。
そういう日に、人は自分を責めやすくなります。
今日、自分は何の役にも立っていない。 何も生み出していない。 誰かに返せていない。 社会の中で、自分だけ止まっている気がする。
「ただ生きているだけで価値がある」
この言葉は、よく聞く言葉です。 でも、本当に苦しい日にこの言葉を聞いても、すぐには受け取れないことがあります。
きれいごとのように聞こえる。 励まされているのに、どこか遠く感じる。 そう思ってしまうこともある。
だから、この言葉は急いで言わないほうがいいのだと思います。
ただ生きているだけで価値がある。 それは、何もできなくても立派だと言い切ることではない。 苦しさを軽く扱うことでもない。 動けない自分を、無理に肯定することでもない。
むしろ、何もできない日に、その人が消えてしまったわけではないと見ることです。
返事ができなかった日にも、その人はいた。 仕事が進まなかった日にも、その人はいた。 誰かに優しくできなかった日にも、疲れた身体で、その日を通っていた。
外から見れば、何も起きていないように見えるかもしれません。 でも、その人の中では、何かをこらえていたのかもしれない。 何かから回復しようとしていたのかもしれない。 言葉にならない重さを、ただ抱えていたのかもしれない。
人の一日は、成果だけで見えるものではありません。
AI時代には、できることが増えていきます。 助けてもらえることも増える。 整えられることも増える。 できたこと、できなかったことも、前より見えやすくなる。
だからこそ、できなかった日をどう見るかが大切になります。
何かができるから、ここにいていい。 誰かの役に立つから、生きていていい。 成果が出るから、その一日に意味がある。
そういう見方だけに自分を預けると、何もできない日に、自分の居場所まで消えてしまいます。
でも本当は、できる日も、できない日もあります。 人に与えられる日もあれば、ただ支えられる日もある。 前に進む日もあれば、そこにいるだけで精一杯の日もある。
その全部を含めて、一人の人が生きている。
ただ生きているだけで価値がある、という言葉を、もし言い換えるなら、こうかもしれません。
何かができない日にも、あなたは消えていない。 誰かの期待に応えられない日にも、あなたの一日はなかったことにはならない。 うまく笑えない日にも、そこにいるあなたを、すぐに否定しなくていい。
それは、大きな肯定ではないかもしれません。 でも、苦しい日には、そのくらい小さな受け取り方で十分なことがあります。
水を飲む。 布団に戻る。 窓の外の音を聞く。 少しだけ目を閉じる。 何も変わらなくても、ひとまず今日を終える。
その日を立派な日にしなくてもいい。 意味のある日に見せなくてもいい。 ただ、その日を通った自分がいた。
第85回から考えてきたのは、たぶんこのことでした。 成し遂げなくても、代わってもらえなくても、感覚が小さく揺れていても、そこには一人の時間がある。
ただ生きているだけで価値がある。 その言葉は、誰かを急いで救うための標語ではなく、 何もできない日にも、その人を消さずに見るための言葉なのだと思います。