#87部 — なぜ、生きるのか

自分の感覚を信じるとは、どういうことなのか

2026-06-07

「大丈夫です」と答えたあとで、帰り道に少し胸が重い。

その場では、うまく話したつもりだった。 相手を困らせたくなかった。 場の空気も悪くしたくなかった。 だから笑って、分かりましたと言った。

でも、駅まで歩いている途中で、なぜか気持ちが沈んでくる。

こういうことがあります。

予定を入れたときは納得したつもりだったのに、前日の夜になって、どうしても気が進まない。 人に合わせて笑ったあと、少しだけ自分が置いていかれた感じがする。 条件としては悪くない話なのに、どうしても心が動かない。

その感覚は、言葉にしにくいものです。

理由を聞かれても、すぐには答えられない。 何が嫌なのかも分からない。 ただ、どこかに小さな引っかかりが残っている。

自分の感覚を信じるとは、何でも自分の思い通りにすることではないのだと思います。 いつも自分を優先することでもない。 誰かの意見を聞かずに突き進むことでもない。

むしろ、自分の中に起きた小さな反応を、急いでなかったことにしないことです。

もちろん、感覚はいつも正しいわけではありません。 疲れているだけのこともある。 怖くて避けているだけのこともある。 過去の経験が、今の判断を少し曇らせていることもある。

だから、感覚だけで決めればいいわけではない。

でも、感覚をまったく聞かないまま進むと、あとで自分がどこにいたのか分からなくなることがあります。

AI時代には、判断の材料は前よりたくさん手に入ります。 比較もできる。 分析もできる。 リスクも整理できる。 選択肢も並べられる。

それはとても助けになります。

けれど、どれだけ整理された答えがあっても、最後にその選択を生きるのは自分です。

条件は良い。 周りも勧めている。 数字で見ても間違っていない。 それでも、なぜか息が詰まる。

そのとき、「正しいはずだから」と押し切ってしまう前に、少し立ち止まってみる。 自分は何に引っかかっているのか。 何を怖がっているのか。 何を守りたいのか。 本当は、どこで無理をしているのか。

そうやって、自分の感覚に問い返してみる。

それは、わがままではありません。 自分の一日を、自分のものとして扱うための小さな手続きなのだと思います。

人は、いつもはっきり分かってから生きているわけではありません。 あとから分かることもある。 一度引き受けてみて、初めて見えてくることもある。 誰かと話しているうちに、自分の本音に気づくこともある。

だから、自分の感覚を信じるとは、最初から正解を持つことではないのだと思います。

違和感を、すぐに消さない。 うれしかったことを、小さすぎると決めつけない。 苦しかったことを、自分の弱さだけにしない。 気が進まない理由を、少し待ってみる。

そういう一つひとつが、自分を見失わないための手がかりになります。

自分の感覚を信じるとは、声を大きくすることではありません。 自分の中で起きている小さな動きを、雑に扱わないこと。

その積み重ねが、いつか、自分の一日を少しずつ取り戻していくのだと思います。