前回、親と子は近いのに分かり合いにくいことがある、と書きました。 長く一緒に生きる関係だからこそ、昔の相手を見てしまいやすい。 その話の先で、今日はもう少し別の近さを考えたいと思います。
血のつながりはない。 昔から知っていたわけでもない。 それでも、気づけば「この人たちは身内に近い」と感じる相手がいる。 何かあったときに顔が浮かぶ。 うれしいことがあったとき、先に伝えたくなる。 しばらく会っていなくても、どこかで切れた感じがしない。 こういう関係は、たしかにあります。
不思議なのは、こうした近さが、生まれた時から与えられていたわけではないことです。 同じ家にいたからでもない。 血がつながっているからでもない。 多くの場合、それはあとからできてくる。 少しずつ会い、少しずつ話し、何でもない時間を重ねるうちに、気づけば近くなっている。
ここで大きいのは、たぶん「長く知っていること」だけではありません。 この先の時間も、少し一緒に生きたいと思えること のほうが大きいのだと思います。
過去を共有しているだけなら、懐かしい相手で終わることもある。 でも、また会いたい。 次の季節も一緒に過ごしたい。 この先の変化も見ていたい。 そう思えるとき、その関係はただの知り合いとは少し違ってくる。
AI時代になるほど、この近さの意味は前よりはっきりしてくる気がします。 一人でもかなり生きられる。 相談もできる。 学ぶことも、作ることも、前より一人で進めやすい。 だからこそ、人が人に求めるものは、足りないものを埋めることだけではなくなる。 それでもそばにいてほしい。 これからの時間を一緒に持ちたい。 その感じのほうが前に出てくる。
家族のような関係は、便利だから残るのではないのだと思います。 何かの役に立つからでもない。 同じ出来事を通ってきたこと。 そして、これからも少しずつ時間を重ねたいと思えること。 その二つが重なったとき、人は血のつながりがなくても、かなり近い関係を持てる。
こういう関係は、最初から名前が決まっているわけではありません。 友人とも少し違う。 仲間とも少し違う。 でも、その名前のつかなさも大事なのかもしれません。 先に役割があるのではなく、一緒に過ごした時間の中で近さのほうが先にできるからです。
誰かと生きるとは、与えられた関係だけを大事にすることではない。 人生の途中で出会った人の中から、 この先も時間を一緒にしたい相手を見つけていくことでもある。
血のつながりがなくても、人は家族のような関係を持てる。 それは、関係が生まれつき決まるものではなく、 生きる中で選ばれ、少しずつ近くなっていくものでもあるからなのだと思います。