#84部 — なぜ、生きるのか

理由がないまま続いているものに、意味はあるのか

2026-06-04

毎朝、同じ道を歩いている人がいます。

特別な目的があるわけではない。 健康のため、と言えばそうかもしれない。 気分転換、と言えばそれも近い。 でも本当は、そこまではっきりした理由があるわけでもない。

同じ角を曲がる。 同じ家の前を通る。 季節によって、植木の色が少し変わる。 犬を連れた人と、名前も知らないまま軽く会釈する。

誰に頼まれたわけでもない。 成果になるわけでもない。 誰かに見せるためでもない。 それでも、なぜか続いている。

人生には、そういうものがあります。

毎日、同じカップでお茶を飲む。 使い慣れたペンを選ぶ。 同じ本を何度も開く。 もう会わない人のことを、ふとした拍子に思い出す。 理由を聞かれると、うまく答えられない。 でも、やめてしまうと何かが少し変わってしまうようなもの。

私たちは、つい理由を求めます。

何のためにやるのか。 何に役立つのか。 どんな意味があるのか。 そう問われると、説明できるものだけが価値あるもののように見えてしまう。

AI時代には、この傾向がさらに進むかもしれません。

行動は記録される。 時間の使い方は分析される。 おすすめは最適化される。 無駄に見えるものは、減らせるものとして扱われやすくなる。

すると、理由のないまま続いているものは、少し居場所を失いやすくなります。

でも、人間の一日は、理由のあることだけでできているわけではありません。

なぜか通ってしまう店。 なぜか捨てられない写真。 なぜか続けている習慣。 なぜか覚えている言葉。 そこには、説明より先に、自分の時間が重なっています。

意味は、いつも最初から言葉になっているわけではありません。 続けているうちに、あとから分かることがあります。

あの散歩道が、自分を少し整えてくれていた。 あの店に行くことが、一週間の小さな支えだった。 あの人を思い出す時間が、自分の中で何かを保っていた。 そのとき初めて、理由がなかったのではなく、まだ言葉になっていなかっただけなのだと気づく。

だから、理由がないまま続いているものを、急いで切り捨てなくてもいいのだと思います。

もちろん、すべてを守る必要はありません。 惰性で続けているだけのものもある。 もう自分には合わなくなったものもある。 手放したほうが楽になるものもある。

それでも、すぐに説明できないからといって、価値がないとは限りません。

理由があるから続くものもあります。 でも、続いているからこそ、あとから理由が見えてくるものもある。

第81回から、私たちは「なぜ生きるのか」を考え始めました。 けれど、その答えは、大きな目的の形で現れるとは限りません。

毎朝の道。 いつものカップ。 誰かを思い出す時間。 名前もつかない、小さな習慣。

そういうものの中に、自分の一日を支えているものが混ざっていることがあります。

理由がないまま続いているものに、意味はあるのか。 たぶん、あるのだと思います。

それは、誰かに説明するための意味ではなく、 自分が今日を通っていくために、そばにあったものなのかもしれません。