人は、いくつもの役割を持って生きています。
会社では、上司や部下。 家では、親や子どもや配偶者。 社会の中では、経営者、社員、先生、学生、利用者、支える人、支えられる人。
誰かに自己紹介するときも、まず役割から話すことがあります。 「何をしている人ですか」 そう聞かれると、仕事や立場や肩書きを答える。 それは自然なことです。 役割は、人と人が関わるための手がかりになります。
でも、ときどき思うことがあります。
その役割を外したあとに、自分には何が残るのだろう、と。
仕事が終わった夜。 子どもが寝たあと。 誰にも頼られていない時間。 返信もなく、予定もなく、ただ部屋にいる時間。
そのとき、人は少し落ち着かなくなることがあります。
何かをしていないと、自分が薄くなるように感じる。 誰かの役に立っていないと、ここにいる理由が弱くなるように感じる。 名前のついた役割がないと、自分をどう受け取ればいいのか分からなくなる。
それだけ、私たちは役割の中で自分を支えてきたのだと思います。
もちろん、役割は悪いものではありません。 仕事があるから、誰かとつながる。 親という役割があるから、守ろうとする。 先生という役割があるから、誰かの学びに関われる。 役割は、人を縛るだけでなく、人を立たせてもくれます。
ただ、役割がそのまま生きる理由のすべてになると、少し苦しくなります。
うまく働けなくなったとき。 子どもが大きくなって、必要とされ方が変わったとき。 肩書きが変わったとき。 誰かからの期待に応えられなくなったとき。
そのたびに、自分の存在まで揺れてしまうからです。
AI時代には、この揺れはさらに大きくなるかもしれません。 これまで人が担っていた仕事の一部を、AIが支えるようになる。 専門知識も、判断の補助も、文章も、計画も、前より多くの人に開かれていく。 すると、役割の中身は変わっていきます。
「この仕事をしているから自分には価値がある」 「この役目を果たしているから、ここにいていい」 そう思っていたものが、少しずつほどけていく。
そのとき問われるのは、役割を失うことではありません。 役割の奥にいた自分を、もう一度見られるかどうかです。
誰かのためにご飯を作る。 仕事で一つのことを丁寧に終える。 帰り道、ふと空を見る。 何も頼まれていないのに、誰かのことを思い出す。 そういう時間の中には、肩書きでは説明できない自分がいます。
生きる理由は、役割の中にもあります。 でも、役割の中にだけあるわけではないのだと思います。
役割は変わる。 必要とされ方も変わる。 できることも、できなくなることもある。
それでも、その変化の下で、今日を感じている自分がいる。 誰かを思い、何かを受け取り、少し迷いながらも一日を通っている自分がいる。
生きる理由を役割だけに預けすぎると、役割が変わったとき、自分まで見失いやすくなります。
だから第五部で探したいのは、役割を否定することではありません。 役割に支えられながらも、その奥にある一人の時間を、どう受け取るかです。
何者かである前に、今日を生きている。 その当たり前の中に、生きる理由の手がかりは、もう少しだけ隠れているのかもしれません。